2010/06/02

宮下公園についての覚え書き


CNV000018, originally uploaded by morinohito68.
5月18日に、宮下公園を訪れた時の写真です via Flickr

この日は、ドラムサークルのワークショップや、公園でのレイブパーティが行われていて、多くの人たち、そして子供たちも!が訪れていてとても賑わっていました。

公園を占拠していると、親子連れの人たちが自由に遊べないという声もよくネット上で目にします。もちろん、普段の宮下公園は、渋谷の喧噪に比べて、引きこもったような印象もあり、野宿の人たちのテント小屋や今のレジデンスのテントに違和感を覚える人たちも多いのでしょう。

けれども、このような問いは、「野宿=怖い、汚い、犯罪」、「政治運動をしている=怪しい、怖い」といった歪曲化され、単純化されたイメージを他者に投影しつつ、同時に「小汚い野宿者や今の社会に対して声を発する人々がきれいさっぱり存在していない、きれいなナイキ公園」というもう一つの巨大企業の衛生主義的イメージが今まさに、重層的で、複雑で、けっして「きれいではない」宮下の現実を塗り替え、隠蔽しようとする動きに対しては驚くほど無感覚です。

確かに、公園をある種の占拠状態にしていることは、事実であり、それに伴う運動者自身の占有の問題は、「公園は誰のものか」という問いを運動者自信に突き返しています。

そして、この問いに答えることは、とても困難を伴うものです。

ただ、今僕が一つ言えるのは、「公園」は決してきれいな設備や充実した施設と言った、「ハード」ではないのだということです。公園が社会空間の一つの形態である以上、「公園」を「公園」たらしめているものの可能性、そして様々な制約や禁止事項は、実際は人間同士の関係の取り結びの現れです。

いくら奇麗で新しい公園でも、お金を払わなければ入るなと言われたり、これこれの活動以外はしてはだめだ、と言う人たちの下では、遊んだり、休んだり、何もせずにぼーっとしたりすることはより難しいように思います。

「この場所に一時的であれ、もっと長い時間であれ、その場所に今いる人間同士が、どのように振る舞えば、互いによい関係を取り結ぶことができるのか?」

「公園」という場所は、今や、自分の見知らぬ他者と出会い、その場所で、見知らぬ者同士が、どのように共にあることへの相互了解を取り結べるか、その場所にいることのどこまでが納得できるものであり、また、納得できないものであるかを、その場所で膝を突き合わせて話し合う、まだ見ぬ社会的諸関係の可能性を試みる場所としての役割を担ってきているのではないか、というのが僕の予感めいた印象です。

大企業の永続的占領に反対して行われた一時的占拠が、これまであまり語られてこなかった、もしくは自明化されてきた「公共」という概念を揺さぶりつつあるのは、確かです。そして、ナイキ批判やレジデンスへの批判を含めて、すでに「公共なるもの」に巻き込まれているはずです。

「公園は誰のものだ?」という定義を下す問いよりも重要なのは、この日の五月の空の下のように、「子供たち、そして大人たちがそれぞれ、別々のことをしながらも、その場にいることを肯定し合えるような状況を作る為にはどうすればよいのか?」というより具体的で、倫理的な問いへと自分たちの考えを開いていくことのように思います。

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