2010/06/02

その日、自分は何をしていたのだろう?

先週の日曜日に東京で、民主党のアメリカ軍基地の辺野古案の承諾に対する反対デモが新宿で行われた時の映像が届きました。

自分たちの主張を叫ぶた為だけでなく、同じ世界で生きている、まだ会ったことの無い人たちの悲しみや苦痛、怒りへの想像力を失わない為に、遠い場所での出来事と今の自分の生活がどこかで繋がっているのだという、その感覚を他の誰かと共にするために、デモに行く人たちがいてもいいと思う。

デモは、彼方から届く声に耳をそばだて、それらが切迫していると感じたその時に、黙って聞いていたテレビニュースのスイッチを切り、家を出て、路上へと集まり、そこに居合わせた人たちと膝を突き合わせて、共に考え、その声を自ら発し始めるところから始まる。

一回のデモが何かを劇的に変化させるとするならば、それはその場所にいる自分自身なのかもしれない。それは、遠い出来事として無視してきた、もしくは、気がつかないままにしておいた問題を再び自分に突きつける。デモは単なるアジテーションでも、その問題解決の手段でもない。デモが作り出すものは、人と人の顔が空の下で再び出会い、今、緊急に話されなければならないことを、皆が自分の声で話し始める瞬間に立ち現れる、「直接民主主義の空間」の一つ姿なのだと思う。

沖縄を裏切るな!新宿ど真ん中デモ/2010年5月30日 

あのとき、あなたはなに をしてたの?

 ほかにあともうひとつ考えることがある。それは、自分が今度また沖縄に行ったとき、あるいは、沖縄の知り合いと会った時、「ところで、共同声明や政府案に 辺野古の名前が記されたとき、あなたはどこでなにしてたの?」ときかれたら...ということである。自分を行動や表現にかきてたてるのはいつも、こうした 想像の問いかけである。いや、強迫観念といってもいいかもしれない。いまここで何もしないでいたら、顔をあわせられない人たちがいる、もうしわけの立たな い人たちがいる。こと沖縄の場合、想像ではなく、ほんとうにいる。だからデモに行く。義理や私情に流されていると云われても仕方ないが、ヒトにはジュゴン やヤンバルにはない人間の義理というものがあり、それがヒトを人間という存在にし、その交換とつながりが人間の社会をつくっているのだから、やはりそれを 「裏切る」わけにはいかないのである。

「イルコモンズのふた」より抜粋

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